昭和51年07月01日 月次祭
今度のお道の信心の新発足と申しますか、色々な一つの教団の転換期にあたって拝詞が祈願詞に変わると言った様な、変わり方を今示しておるのであります。その祈願詞の中に、天地書附をわが信心の要とし、金光大神の道貫きて、神の教えをそのままにですかね、神の心でしたか。神の心をそのままにか、えっあっ神の働きそのままにか、神の働きそのままにという所がございます。金光大神の道を貫くと言う事、神の働きをそのままに現していくと言う事が、金光大神の道を貫き通させて貰う所からしか現されない。
ただそのままに、神の働きそのままにそれを受けて、そして初めて神の働きをそのままに現す事が出来ます。その神の働きをそのままに現す事ができなかったら、いくら愛をもって語っても、親切をもって伝えてもそれは伝わる事はありません。神の働きをそのままに現していくという生き方。もう本当に神様働きと言うものは、ただ恐れ入った事ばかりでございます。今日、午後の奉仕をもう下がろうとしておりましたら、熊本の松村さんが、確かに一時の御祈念にも熊本から参ってきていました。
今日から修行が始まったから。そしたら夕方またお参り今お参りしてきております。大変心にかかる心配な、まぁ心配なというかとにかく心にかかる問題があった。今日偶々遠い親戚のお家」に行って、そんな話をさせて頂いておったら、もうそこは大変なお金持ちさんらしいです。遠い親戚で滅多に行くところじゃないが、その初めて今日聞かせて頂いたと言う。庭の所に祠があって、そこに何様かがお祀りしてある。
そのお祀りしてあるその中に、天地金乃神様という神様がお祭りしてあると。私は聞いて今日驚いた。別に金光様の信心をしておる訳じゃない、だけれどもやはり天地金乃神ていう神様が、どこえやらここにもござるという神様じゃないから、まぁ熊本あたりに一番始めの頃、まぁお道が伝わって、そして金光様ちゃ天地金乃神様を拝むとこう、大変なご利益のある神様げなと言うので、まぁそこの先代か先々代かがその祠にちゃんと書いて収めてある。天地金乃神様。
もうその先代からの言い伝えがね、この神様さえ拝みよりゃ家はどんどん繁盛するという言い伝えがある。もう確かにその家は繁盛しているそうです。もうそれを聞いただけでも有り難かった、これはもうあきれた私だん、金光様の御信心させてもらうが、金光様の言わば主人、が生神金光大神様天地金乃神様を拝むのですよ、と言うてまぁ話しました。不思議な事にね、その話を聞かせて頂いて心がややすっきりした。
それから帰ると言うて、お土産に梅焼酎をナポレオンの瓶に一杯、あんたがたほんなら、天地金乃神様にお供えしてくれんの、と言うてから頂いた。もうそれを頂いた時にはもういよいよ心が安らいだ。はぁ本当にここが、今うちの辛抱のしどころだと。いつも御理解に頂くように、梅と言えば信心辛抱と言われる。その梅の実こそがお徳だ。それを濃度の強い、有り難き勿体無き恐れ多きの、焼酎の中ににつけてある、その焼酎を頂いて帰ると言う事は。
神様がそのくらいの事で心配するな。神がついておるがと言うて下さるような思いがして、もう有り難うして有り難うしてと言うので、今日の一時の御祈念にもお参りが出来た、今晩もお参りが出来たと言う事になる。今日は朝の御祈念の後に、毎朝参って来る婦人があります。いつも月次祭にはお神酒と、ご建設費というお供えと、まぁそれぞれのお供えが必ずあるんだけれども、今日はお神酒だけしかない。
どうしたこっちゃろうかと思いよったら、そこに頭下げちからもう本当にすんません、すんませんちお詫びしよんなさる。(笑い)それがどうした事かと聞かせて頂きましたら、「親先生私の店が、まぁ細々ながら始めさせて頂いて、丸十年にならせて頂きます。これは私の夢でございました。だんだんおかげを頂いてまいりましたから、十年のちょうど境に新しい店がまた一軒出来ました。
それもこれも兼ね合わせて、まぁ少しでも神様にお喜び頂けるような、お供えの一つもそせて頂きたいと思わせて頂いて、おかげで金を百万円お供えさせて頂く積りで、今日はそのお供えを持ってきよりました。ところがここに着いたらそれがないと言うのです。取って返していったけれども分からない。神様は妙な方ですね。わざわざですねぇ神様がお供えばしようち言いよるとやけんで、それこそスムーズにね、こうだけれどもそこにスムーズさのないところが素晴らしいです。
御祈念を終わり御理解を頂いて、まぁ段々御理解を頂いて落ち着いた。今日の御理解が偶々今月の信心の焦点、夏期信行の焦点を一つ太い心と言う事であった、大きな心です。いわゆる図太いと言うあの太い心なんです。その太い心を目指させて頂こうというのが焦点である。そういう御理解を頂きよる内に心が落ち着いてきた。御祈念が済む間御理解を頂き終わってから、ここへ出てみえて「ただ今から帰らせて頂きますが、やっぱ一応警察に届け出とく方がよろしゅうございましょうか」というお伺いがあったら。
○○さんそれはね警察に届ける事じゃなかろうと思うよと。あぁそうですかならよろしゅうお願いしますと、言うて帰らせて頂きましたら、まぁ小一時間したらまたお参りをしてみえました。今度はもう頭があがりませんでした。話を聞くと帰らして頂いたらジャンジャン電話が掛って来た。警察からであった。やっぱ途中で落としとった。それを近所の方が拾うて警察に届けてあった。
はらぁあんたこげなん大金を朝から、それこそ実はあるわけて頂ければ分かりますように、金光様にお供えさせて頂くつもりで今日は、持って来たところがこうこうでございました。ほうあんた方は金光様を信心しよんなさるとですばいなぁ、それけんあんた方ん店が中々気分がええ繁盛しよると思いよったっち、言うて警察の方達にまで示現活動が出来たというておられます。
そしてねそれこそおかげを頂いて十年間の思いを結集して、お供えをさせて頂くいかにも真であり、真心であり神様が喜んで下さるようであるけれども、はぁまぁだまぁだ神様の目からご覧になると、どこに不純なものがあるやら分からん、どこに俺はもう百万お供えができたということやら分からん。百万円が一千万であろうがです、お取次させて頂く上においては一つも変わらん。ですからそういう真を本当に真として、神様が受けて下さる、なぜかというとまたそん位な事ではない。
神様がお返しをなさらなければならない、義務が生ずるからでございます。先ほども光昭がここで前講でお話をいたしておりましたが、昨日はあんな大きな、それこそ御大祭のようなお祭りを仕えさせて頂いて、今日は又このお月次祭だけではない、朝の御祈念には、ここ一杯のお参りである。一時の信行にもまたここが割れるような勢いで、皆さんが一時の信行をなさる。そしてまたお月次祭にはこのようにしてお参りになっておる。もうそれこそ合楽、合楽、合楽と合楽に掛り切っておらなければならない。
はぁちょいとこう合楽の信心ちゃぁ難しか、とても私どんじゃ出来んという人がおるかもしれん。けれども私はね、そういう神様に信心にかかっておれれる程しの信心を頂きたいと思う。もしそれがねもう合楽にのぼせちござったけんで、家も売らっしゃった屋敷ものうなったと言う様な事であるとするならばです、この神様は値打ちはないです。それこそ神様にかかっておりゃ、神様がまた家庭の上の事には。全ての人間の幸福の、いうならば全ての所を握ってござるのがこの神様ですから。
氏子が神様に任せきって掛っておるなら、神様が掛り切ってはたらいて下さるのですから、とてもとても、人間の知恵やら力でどん出来るこっちゃないような、おかげが頂けるのが金光様の御信心です。それが信じられないなんてそれはもう実に、私はそれでですなら一生懸命お参りしとるというなら、一つのもうナンセンスです。けれども神様がそこにおかげを下さらなければならない、下さるためには氏子の真心を求め給う。氏子の一心を求め給う。氏子がいうならばどん腹を神様がご覧になる。
今朝からその太い心と。それが世の中には色々なね、やっぱ度胸のある人があります。どん腹の人がおります。例えばあの今ロッキード事件の中心である小玉さんあたりの場合でもです、もしああいう事件がなかったならば、やはり英雄でしょうね。とても真似のできることではない。いうなら働きをいわばしてきなさった現してきなさった。偶々ああいう問題に引き起こされた事から、もう小玉さんと言う事はない、小玉が小玉がということになるですね。悪い事をしちゃいけませんよね。
だからあぁいう例えば太っ腹とかどん腹であってはつまらん。もう却って悪いです。しかともない度胸があるというのは。私共のように度胸がない神経が細かい。もう細かい事が苦になって苦になって堪らん。苦になって苦になって堪らんから、神様に一生懸命向かう。そこに生まれてくる安らぎであり安心であり、いわば信心度胸である。でなからなければ値打ちがないのです。私は生まれつき度胸がよいと言うのは、それは却って危険を伴います。信心によるところ、いわば神様を信ずるからこそ度胸が出来る。
神様を信ずるからこそ小さい事を言わんで済む。今朝の御理解を頂いた後に、ちょうど上野先生が奉仕をしておる時に、もう容易ならない問題ばかりが電話が掛かって来た。今朝の御理解を心の中に頂いて、そして親先生ならどう言う風にお答えになるだろうかと思いながら、お取次をさせて頂いたといっております。高橋さんの所から電話が掛って来た。お寿司屋さん。十件から支店があるくらい、従業人が百人からおります。お寿司でもやっぱり小倉にも大きな工場がある、福岡にも大楠工場というのがあります。
その大楠工場の方で今日ちょっとした事件が起こった。そこに一人職人の一人に乱暴なのがおる。それが今そのう棍棒を振り回したり、その出刃包丁を振り上げたりしてから、そのう大暴れしとると言う訳です。皆さんもご承知の様にもうこの位行き届いた、いうならばこの人がおかげ頂かんなら、頂く者はあるまいという位熱心ですよね、福岡からあぁたもう十何年間ですか毎日日参ですから。それこそ朝参りに参る。今日なんかは朝昼晩だから参ってきとんなさるとです。私は所がねもう実に神経が行き届いた方です。
いうならば悪ういうならば細かい。(笑)ちょいとした事が心配になって気になってたまらない。その高橋さんが今日ここへお取次を願われて、私は今日のあの問題はもう、知らなかった事にしときたいと思いますというお届けがあった。もう高橋さんもしあんたにこういう信心がずうっと出来たら、もう鬼に金棒ばいというて、今日私はお取次をさせて頂いた事でした。そういうことが問題ではない。あぁおかげじゃが。
何故って日々お取次を頂いて、しかも職人一人一人の事がお取次が願われて、各支店の事が願われて、しかも毎日この様にしてお縋りさせて頂いて、そして起きてくる事であるから、神様の働きに無駄のあろう筈がないのですから。それを思うたらがたがた言うたり心配したりする必要はない。しかも今朝の御理解をそのままに頂かせて頂いたところにですね、これからの高橋さんの信心があると私は思います。
今日ならその婦人が十年間の言うならばお店を経営させて頂き、段々おかげを頂いてきたお礼に、これこれのお供えをさせて頂いた。はぁおかげでまぁと、まぁいうなら鼻高々ということでもなかろうけれども、そこに不純な事があっては神様がそれをお受けなる訳にはいけない。それを本当におかげに返してやるためにはです、神様のそういう手の込んだ演出もまた、必要である事に成って来るのです。
一辺落とした取り上げられた。そして新たに頂いた。それがお供えになる時には、もう感涙にむせんでのお供えでありました。今日言うておられました。今日総代さんがお初穂整理をします。そしてその次がもうてんでぐちゃぐちゃになっとるげなもん。どうしてあげんぐちゃぐちゃになるか、そりゃそうくさいあんた夕べあのもうそれこそ、これだけは明日のお供えにと思ってからだいぶ抜いちゃった。それけんでもうそりゃあ包装紙は立派にしちゃったばってん、もうぐちゃぐちゃになっとった訳です。
と言う位の思い入れはあるけれども、思いの中に不純なものがあっては、神様がお受けにならんのですよ。だから本当にお供えしたのじゃあない、お供えをさせて頂いたんだなという事が、分からせて頂いてのお供えである。だから神様がその真を受けて下さる、昨日のお祭りの後の説教でも聞いて頂きましたようにね。宮崎の黒木さんという方が、毎日自動車をセールスなさっておられる。毎日事故一つ起こさずに毎日おかげ頂いておる。それが偶々自動車を整備に出したから。
会社の自動車を借りたその日に限って、向こうの方からやってきたのが居眠り運転である。もうどうにも出来ない災難ですね。正面衝突。もちろん自動車はめちゃめちゃでしたけれども、おかげで怪我もしなかったが、怪我しなかったおかげよりもです、交通安全祈願の御神米を自動車の中に、お祀りしておるということと頂いておるということと、頂いていないということが、こんなにもまた違うということを思うた時にです、364日間のおかげを受けておる事が心の中にしきりと浮かんできた。
もうそれから湧いてくるのが感動である。一日感動で回られた。宮崎のトヨタが始まって以来初めてと言う様な、自動車26台が販売される事が出来たち。だから本当に神様は嘘をおっしゃらんですよ。真に有り難いというものが一日分でも、それが364日間の事が思い起こされた訳です。こんな御守護の中にあっての日々であったということがです、分からせて頂いたら、本当に日々のお礼が足りなかった事の、お詫びをさせてもろうたり、お礼を申させて頂いたり、いうならば感涙にむせんでの一日であった。
自動車が26台売れたと。嘘の様な話です。だから神様がね、どうしても真に有り難いというものを、下さろうというための演出がいつもあっております。今日の松村さんの場合だってそうです。心にかかってどうにもならない問題。どうにも心にこの傷がいえない。そこを偶々親戚の家に行って天地金乃神様の、いわばあらたかな事を反対に聞いてきた。そして帰りのお土産が素晴らしかった。梅焼酎だった。その梅焼酎をもろうた時にです、信心辛抱だと、これがお徳になるのだという頂き方。
お互いこの七月の月をいよいよ、太くならせて頂く、修行に本気で取り組ませて頂く。やせきれたものがいかに力んだところで、大した力が着く筈がありません。肥太らなければなりまりせん。それには今朝からも申しますように、泉尾の教会といえば、今名実ともに日本一の大教会でありましょう。そちらの三宅という先生が、何時も仰っておられるお言葉の中に、「なんでもの願いに立つ」ということをは言っておられます。なんでもの願い。私はそのなんでもの願いというのが分からなかった。
なんでんかんでんお願いせにゃということのように思うたけれども、それもどうもピンと来なかったけれども、今日の御理解を頂いておる内に、なるほど素晴らしいということである。いうならばお相撲さん達が、いわゆるちゃんこ鍋になんでもかんでも、ぐちゅぐちゅ入れてから煮る訳です。ほうこれは俺は食べきらん、これはすかんというて出しよったら、もう栄養にもいうならば太りもしません。
腹いっぱい栄養になるものを頂く、その栄養になるものがです、自分の嫌だ嫌いだという者の中にあるから不思議なんです。そういう何でも頂いてやれ、何でも頂こうという、その私は生き方こそがです、いよいよ心を太くしていくことだと思います。その太った心で力を頂いていく稽古をさせてもらうから、いうならば以上な力が生まれてくるのです。小さいいうなら心の人がいくらどんな修行をしても、おかげは知れたもんです。というて、信心から生まれてくるところの度胸を頂こう。
信心によるところの心を太らせてもらう、お育てを頂くおかげを頂こう。どういうことが起こっても、今日の上野先生じゃないけれども、親先生ならこれをどう受けられるだろうかという受けかたをさせて頂いて、自分の心が豊かに大きくなっていく、いわゆる太っていく事を楽しみに信心させて頂こう。それを鍛えて初めて偉大な力が生まれてくるのです。昨日のお祭りからそして朝の御祈念に、そしてまた昼の御祈念にそしてまた夜のこうやって、いうならば合楽にかかりきっておらなければならない。
そこに私は信心が好きにならにゃいけないと、なければいけないと思う。好きこそ物の上手なれである。もうとにかく合楽に浸っておれるなら、浸っておきたいと言う様な心が出来ておらなければならん。そげなこつなら誰が食べさせてくれるか。神様がじっとこうやって食べ物をもって来て下さる訳がなか。よし持ってきて下さらんごたる、神様ならば信心せん方がよか。神様の事に一生懸命打ち込んで、信心にいよいよ打ち込んで、財産がへるごたる神様ならせんがよか。
私はそんな神様じゃないと思う。打ち込めば打ち込んだだけ力が頂ける。打ち込めば打ち込んだだけおかげの頂けれる、神様だと信ずる所からですどういうことが起こって来ても、神様を信じて疑わない、言うなら今日の高橋さんの所で起きた、日々お取次ぎを頂いて起きてくる事であるから、それは成程側におれば、出刃包丁を振り回してこうこうやるなら、えずうもあろうけれども、そういうことでも神様の御働きの中にあるんだと思う時に、自分は知らん振りしとってよかと言う風になってくるのです。
そういう心が私は太る心だと思うのです。今日の一時の御祈念の、いうなら一口の御理解が日々頂きます。今日は『四季折々に咲き乱れる花園の中に住まわせて頂こう』という御理解でしたね。生神金光大神とは、神がここに生まれるということであって、いうならばいつも自分の心の中に、四季折々の花が咲き乱れておる事である。どんなに極寒の時であっても、どんなに炎天それこそ燃えるような日であっても、その炎天下に咲く華があるでしょう。極寒の中にやはり匂いを放つ、そして花を持つ花があるでしょう。
どの様な場合どういう時であっても、ここに信心の喜びを頂かせてもらう、どういう時であっても和賀心の信心の要は、天地書附和賀心なんだ。いうならば天地書附を基軸として、天地書附を自分の信心の要として、金光大神の道を貫くということは、十里の道を九里半登ったから安心するというのではない、それを貫いて十里の坂を向こうへ登り超えるという信心。金光大神の道貫きて、神の働きをそのままに、神様の働きをそのままに現せるということになったら、大変なおかげを現す事が出来る。
そのためには神の働きをそのままに、自分が頂こうという気が起こらなければ駄目なんです、皆さんがあそこの所を読まれる時に、神の働きそのままにば言うただけじゃでけんです。今日もどうぞ神の働きそのままに、私の上に起きてくる一切の事を合掌して受けさせて下さい、その向こうに神の働きそのままに世に問う事が出来る、世に現していける事が出来るのです。その為にいよいよです10の力よりも100の力、1000万の力を求めさせて頂いての信心。それにはね朝参り昼参り夜参りと。
例えばそういう信心で商売が出来んごつなったとか、財産が少のうなったちいうごたる神様ならせん方がよか。打ち込んだら打ち込んだ通りのおかげが頂ける、神様であると言う事を信じて、初めてどの様な事が起こっても来ても、驚かんで済む太い心がいよいよいやが上にも、育って来ると言う事になります。今月のいうならば夏期信行の焦点を、いよいよ太い心を頂かせて頂こう、そして祈願詞の中にあります、和賀心いうならば天地書附を芯に要として。生神金光大神の道を貫くと言う事は口だけではいけんです。
貫かにゃでけん。みんなが八里か九里の所でグルグルして、峠を向こうへ降りてないから、いつまでも安らぎが生まれて来ないのです。そこを貫かなきゃいけない。そして神の働きをそのままにということは、神の働きをそのままに受けて、そして神の働きをそのままに現していける程しのおかげを頂いた時にです、教団がそれこそあれよあれよと言う様な、御ひれいにもなってくるでしょう。今度の私は新運動はそういう所に、願目をおいての新運動でなからなければならんと思います。
どうぞ。